「どうやって若くしてプロになったのですか?」Part1

う〜ん、突っ込んできますねえ。あまり具体的に書いちゃうと「杉山って、ただラッキーなだけじゃん!」って言われそうで怖い。(笑)
まあ、でもほとんど同じような質問を毎回されることが多いから、インチキ自叙伝みたいだけど自分の半生(反省?)も含めてかいつまんで書いてみます。
岐阜の田舎で育ったヤツがマグレで日大芸術学部の写真学科に合格しちゃったので、上京したんです。東京は田舎では体験したことがないような毎日でした。大学には芸能人もいっぱいいるし、先輩や東京人はみんなかっこいいし、何でも知っている。で、写真学科と言えば、写真キチガイがいっぱいいて、なんかのフォトコンに入賞したヤツとかが結構いて、話している写真用語が杉山にはまったくわからない。まあ、写真やカメラのことをほとんど知らない田舎者には、カルチャーショックと自身喪失の毎日でした。
で、こんなことではイカンと奮起して、自分にためになりそうな先輩を見つけては金魚のフンのようにくっついていました。某有名作詞家の甥っ子の先輩には写真のことやら芸能界のこと、いけない遊びまでしっかり教えていただきました。ただいつも強く思っていたのは、とにかくいろんな人に会い、何かを吸収しようというハングリーさと、すぐに実行する、それも徹底して。すべての経験を写真に繋げる。
大学2年生くらいになると1年をどう過ごしてきたかが、はっきりと表れてきました。入学当時のただの写真キチガイではなく、本当に一生懸命写真をやってる連中が頭角をあらわしてきました。ライバル心は隠しつつもあいつには絶対負けない、信念ですね、これはもう。写真作家の大坂 寛さんなども同級生でライバルだね。
そうこうしているうちに、自分も頭角をあらわすことになります。まあ、女の子と付き合えば、その子はもちろん僕の専属モデル。撮りたいもの何でも撮っちゃいます。(ちょっと危ない発想ですが..)大学2年の終わり頃には50人近くの女の子のヌード作品持ってましたから。

また、原宿のカフェに行っては外人モデルを英会話の本を片手にナンパし、写真を撮らせてもらう、なんてこともしていた。いずれは海外に行きたいという夢なんかももっていましたから、英語と写真、一石二鳥??という具合です。
大学3年の時だと記憶していますが、その当時集英社が主催の写真大賞を受賞したことがあって、賞金の他にサントリーとのタイアップで副賞で、アメリカ、カリブ海豪華クルーズ、トロピカルキャンペーン!がついてきたんです。そのときに後の『楽園』で木村伊兵衛賞をとった有名写真家の三好和義さんも同時に受賞して、一緒に撮影旅行に行ったんです。その当時から彼は日大にはいないタイプのとてもすばらしい写真を撮っていて、メラメラと燃えました。彼の方はライバル心なんてなかったかもしれませんが、杉山にとってはとても良い刺激でした。やっぱりライバルがいないと何事もだめなのかもしれません。
その受賞をきっかけに集英社の「週刊プレイボーイ」「月刊プレイボーイ」「ヤングジャンプ」等のグラビア系の仕事が入ってきました。その当時、篠山紀信さんがその道で『激写』で大活躍していたので、流行ものが好きな杉山は、タレントさんとも仲良くなれちゃうし、一石二鳥??なんて、その道にのめり込んでいきました。
そういった仕事とは別に商業ベースのカメラマンとは違った写真作家も数多く出てきた時期で、大学の卒業制作はシュルレアリスムのヌード作品を制作しました。それが朝日だったか読売だったか忘れてしまいましたが、新聞に大きく掲載され(大学の教授が推薦してくれた)、その後グラビアとは違うシュルレアリスムの写真家としても、『写真時代』(アラーキーを排出した写真雑誌)などでも作家活動をしていました。JPSとかAPAなどもこのへんの作品で入選しています。世界的に有名な写真雑誌のZOOM(フランス版/日本版)、PHOTO(日本版)等にも紹介されるたのもその頃です。第一次写真ブームですね。(この頃は何人かの写真評論家の方に気に入られていた。)
その後、グラビア系の仕事でいろいろあって、グラビア系の仕事からファッション、広告の仕事に方向転換をします。
大学を卒業して1年目だったか2年目だったか、カメラメーカーのNIKONより杉山の撮影日記風の文庫本を出版。また「澪つくし」で一躍有名になった沢口靖子を起用したNIKONの大キャンペーン広告に抜擢されました。
ない頭でいっぱい書いちゃったから、疲れちゃいました。この続きはまた明日。
それにしても一石二鳥!、一粒で二度おいしい!が好きな杉山だということがわかりますね。