
写真のことを、あまり書いてこなかった
以前にもこのBLOGで触れたことはあるが、このシリーズの中では、写真そのものについてはあまり書いてこなかった。
中学・高校時代はサッカー部に所属し、毎日が練習の日々だった。
とはいえ、趣味は多く、ギターを弾いたり、写真を撮ったりもしていた。
近所の写真館のお兄さんにいろいろな話を聞かせてもらったことが、
今思えば、写真に興味を持つ最初のきっかけだったのかもしれない。
中学生で参加した、忘れられない撮影会
中学生の頃、キヤノン主催の一泊二日の撮影会に一人で参加したことがある。
講師は秋山庄太郎さんだった。 夜の宴会で先生のすぐ近くの席に通していただき、直接お話を伺えたことは、今でも印象に残っている。
部活動の記憶はサッカー一色なのだが、
中学・高校ともに卒業アルバムを見ると、なぜか写真部の集合写真にも、ちゃっかり写り込んでいる。
高校生で「カメラマン」という職業を意識した理由
高校では美大受験を考えていたが、高校三年生の頃から「カメラマン」という職業を意識するようになった。
地方の田舎育ちで、クリエイティブ業界の話や情報に触れる機会はほとんどなかった。
そんな中、本屋に行くと、絵やグラフィックよりも、写真のほうが圧倒的に雑誌の表紙を飾っていた。
ちょうど篠山紀信さんが、ものすごい勢いで活躍され始めた頃でもある。
家にこもって絵を描くより、タレントと仲良くなれて、海外にも行けるカメラマンのほうがいいんじゃないか。
今思えば、かなりおバカな発想だった。
写真ブームの時代と、日大芸術学部という選択
たぶん、僕が高校生だった頃は、第一次写真ブームの真っ只中だったのだと思う。
当時、カメラマンは「なりたい職業ランキング」の上位にも入っていた。
こうして、有名カメラマンを多数輩出している日本大学芸術学部・写真学科を目指すことになる。
日本中から集まった「写真を志す者たち」
大学に入って、まず驚いた。
テレビでしか見たことのない芸能人やモデルが学内を歩いている。
化粧をしたビジュアル系の男子もいれば、いかにも都会的で洗練された先輩たちが大勢いた。
当時の日大芸術学部は、とりわけ尖った学生たちの集まりだったと思う。
そして何より、
日本中から「カメラマンを目指す人間」が集まった学科なのだと実感した。
写真に関する知識量が圧倒的な同級生たちを前に、田舎者の僕は、自分の知識不足に強い焦りを覚えた。
広告研究会と、現場を知る経験
少しでも情報を得ようと、広告研究会に入部した。
そこには、すでに広告業界に身を置いているような先輩や、タレント活動をしている学生も所属していた。
先輩の紹介で、カメラマンや制作プロダクションの現場を見学できたことは、今振り返っても大きな財産だ。
以前にもBLOGで書いたことがあるが、中でも、僕をとても可愛がってくれた先輩がいた。
有名作詞家の甥にあたるその人は、写真のことだけでなく、業界の仕組みや考え方まで教えてくれた。
大学の授業で、本当に身になったこと
当時の大学の写真の授業を思い返すと、
実技では4×5(大判)カメラの扱い方、フィルム現像やプリントの方法を学んだ記憶がほとんどだ。
正直なところ、
これらはアシスタントにつけば、半年ほどで習得できただろうと、今でも思ってしまう。
写真学科の生徒が借りる事ができる暗室やスタジオがあったのはとても良かったが、ストロボはなくタングステンライトしかなかったので、プロの現場とはかけ離れた設備だった。
一方で、本当にためになった授業もあった。
海外の有名写真家の作品や作風、ものの捉え方を解説してくれる写真評論家の教授の講義。
そして、ドキュメンタリーで著名な写真家の教授の講義だ。
この二つは、今でも自分の写真の軸になっている。
雑誌から学んだ、もうひとつの写真の教科書
写真の技術という点でいえば、僕にとっての先生は、玄光社の雑誌『コマーシャルフォト』と『フォトテクニック』の別冊だった。
当時の『フォトテクニック』は、いわゆるグラビア系の写真ではなく、広告やファッションの最前線で活躍するトップ・カメラマンの作品と、それを「どう撮ったか」という技術解説が、ライティング図解付きで詳しく掲載されている、撮影ハウツーの神ムック本だった。
僕はそれを全巻そろえ、「これはいい」と思った写真を、実際に自分でも撮ってみる。
そんなことを、ひたすら繰り返していた。
もちろん、トップ・カメラマンと同じ機材があるわけではないので、仕上がりのレベルは知れている。
それでも、試行錯誤を重ねる中で、技術は少しずつ、確実に身についていったと思っている。
江古田の6畳一間と3畳のキッチンのアパートも住むと言う空間よりも狭いスタジオと暗室にしていた。
写真を生活の中心に置くということ
結局のところ、
写真を生活の中心に置き、自分自身で撮影を重ねることが一番の学びだった。
気づけば、
課題作品も、それ以外の作品も、誰よりも多く制作するようになっていた。
目標と競争相手がいた学生時代
もう一つ大きかったのは、
同じ学科に「目標」と「競争相手」がいたことだ。
先輩には、
在学中からすでに業界で活躍し、注目されていた半田也寸志さんがいた。
同級生には、
後に著名な写真作家となる大坂寛さん、ドキュメンタリー写真家の須田慎一郎さんがいた。
技術の問題ではない。
彼らの写真には、他の学生とは比べものにならないほどの突出した何かがあった。
その後、プロデビューの直接のきっかけにもなった
集英社主催の写真コンテストで知り合った三好和義さんなども、僕は勝手にライバル視していた。
ファッションとの接点が生んだ、もう一つの布石
広告研究会とは別に、
「ファッション研究会」にも関わっていた。
日大の正式な部活というより、文化服装学園など、服飾系学校の学生が集まる緩やかな集まりだったと思う。
そうした人たちと作品制作をしていた経験も、
振り返れば、後のファッション写真へとつながる布石になっていたのかもしれない。


