
1970年代の終わりから80年代にかけて、原宿は単なる流行の発信地ではなかった。
そこは、音楽やファッション、アートといったジャンルが溶け合い、
「どう生き、どう表現するか」を、誰もが自分の言葉で模索していた街だった。
日本では、僕らより少し上の世代が、
ロックやフォーク、ファッションなど、さまざまな世界を自由に行き来しながら、
既存の枠組みを少しずつ揺さぶり始めていた。
原宿は、その揺らぎをもっとも素直に受け止める場所だったように思う。
セントラルアパートに集う人々
その空気を象徴していたのが、セントラルアパートだ。
オフィス、ショップ、アトリエ、たまり場。
どれとも言い切れないその場所には、
デザイナー、ミュージシャン、編集者、摄影师、
そしてまだ肩書きを持たない表現者たちが、自然に集っていた。
そこでは、誰が有名か、誰が成功しているかは重要ではなかった。
大切だったのは、「何をやろうとしているか」。
完成された結果より、今まさに動いている途中の熱量だった。
音楽とファッションが交差した原宿
音楽の世界でも、原宿には独特の空気があった。
YMOが提示したのは、
音楽、テクノロジー、都市感覚、そしてファッションが、
ひとつの文化として結びついていく可能性だった。
一方で、フォークソングの世界では、
フォーライフレコードが原宿に拠点を構え、
アーティスト自身が主体となって表現を成立させる動きが生まれていた。
ロック、テクノ、フォーク。
ジャンルは違っても、共通していたのは、
「誰かに用意された場所ではなく、自分たちの場所を自分たちで作る」
という姿勢だった。
ファッションの世界でも、同じことが起きていた。
川久保玲さんや三宅一生さんが提示したのは、
“流行”ではなく、“思想”としての服。
それは、着る人の生き方や姿勢まで含めて問う表現であり、
原宿という街の空気と、深く共鳴していたように思う。
原宿には、「流行を追う」よりも、
「自分の感覚を信じる」ことを優先する人たちが集まっていた。
レオンとベビーフェイスという交差点
セントラルアパートに集う人たちが、
次に向かう場所があった。
レオンやベビーフェイスといったカフェだ。
そこでは、打ち合わせとも雑談ともつかない会話が、
コーヒーを挟んで、自然に続いていた。
次に何を作るか、どこが面白くないか。
そんな話が、特別なことではなく、日常の延長として交わされていた。
音楽とファッション、仕事と遊び、
プロとアマチュア。
そうした境界線が、原宿では驚くほど曖昧だった。
1980年、原宿に事務所を構えた理由
僕が原宿に強く惹かれたのは、
この街が「完成された人」のための場所ではなかったからだ。
大学を卒業した1980年、
僕は原宿に事務所を構えた。
それは成功のためというより、
「動き続けている場所に身を置きたい」という、
ごく単純な理由だった。
原宿には、
何者でもないことを、恥ずかしいと思わなくていい空気があった。
むしろ、「まだ途中であること」そのものが、
価値として受け入れられていた。
原宿=自立した表現者が集まる街
今振り返ると、
原宿という街をひとことで表すなら、
「自立した表現者が集まる街」だったのだと思う。
誰かに選ばれるのを待つのではなく、
自分で場所を作り、
自分で責任を引き受ける。
セントラルアパートも、
フォーライフレコードも、
レオンやベビーフェイスに集った人々も、
根底に流れていたのは、同じ精神だった。
原宿は、流行を生む街ではない。
覚悟を持った個人が、静かに集まる街だった。
今も原宿を歩くと、
あの頃のざわめきや、コーヒーの匂い、
そして「まだ何者でもなかった自分」の感覚が、
ふとした瞬間によみがえる。
原宿は、僕にとって
過去の思い出ではない。
人生のスイッチが入った場所なのだ。

