帰る理由―故郷は、いつから故郷になるのだろう。(長文)

岐阜城 | 杉山宣嗣

序. 五十年という距離

高校を卒業して岐阜を出てからちょうど五十年の年である。

不思議なもので、五十年という節目を目の前にすると、人は自然と、来た道を振り返るようになる。若い頃は未来しか見ていなかった。明日はどこへ行こう。次は何を撮ろう。どんな景色に出会えるだろう。人生とは前へ進むものだと、疑うこともなく信じていた。振り返るという行為そのものが、まだ自分には早いと思っていた。

けれど、この歳になると違う。未来を見なくなったわけではない。ただ、これまで歩いてきた道のりを、急ぐことなく見つめ直したくなるのである。

今年、私は故郷・岐阜を離れてちょうど五十年になる。十八歳で家を出て東京へ向かい、その後は海外で暮らした時期もあった。振り返れば、人生の大半を故郷の外で生きてきたことになる。行く先々に美しい景色があった。驚くような文化にも出会った。写真家として、数えきれないほどの場所へ足を運び、シャッターを切ってきた。

それでも、六十九を目前にした今、目を閉じたときに一番静かに浮かんでくるのは、生まれ育った岐阜の町並みである。長良川の水面。金華山の稜線。神社へと続く、苔むした石段。

歳を重ねるほど遠くへ行きたくなるものだと、若い頃の私は思っていた。だが実際は、逆だったのかもしれない。歳を重ねるほど、人は心の中で故郷へ帰っていく。それは地図の上にある場所ではなく、自分という人間を形づくってきた時間そのものなのだろう。

この随筆は、その時間をたどる記録である。

一. 母がいた十年

若い頃の私は、それほど頻繁に故郷へ帰る人間ではなかった。嫌いだったわけではない。帰れば懐かしい友人がいたし、長良川も金華山も、変わらずそこにあった。だから「いつでも帰れる」と、根拠もなく思っていた。故郷とは、いつまでもそこにあり続けるものだと、疑ったことすらなかった。

その考えが変わったのは、母が歳を重ねてからだった。

電話をするたびに、「元気にしとるよ」と母は言った。声の調子は変わらない。だが、本当に元気なのか、それとも私を安心させるための言葉なのか、受話器の向こうからは分からなかった。分からないという不安が、私を故郷へ向かわせるようになった。

帰っても、特別なことをするわけではない。実家で一緒に食事をし、テレビを見て、近所の出来事を聞く。私が写真の仕事の話をすれば、母は身を乗り出すようにして聞いてくれた。「そんな遠くまで行ったのか」と目を丸くすることもあれば、「その写真、今度見せてくれ」とせがまれることもあった。それだけの、なんでもない時間だった。

だが今になって思う。人生で一番幸福な時間とは、特別な出来事の中にあるのではなく、こういう何気ない時間の積み重ねの中にあったのだと。母の晩年、その十年ほどは、それまでの人生の中で一番頻繁に故郷へ帰った時期になった。月に一度、時には月に二度。岐阜へは新幹線を使えば数時間ほどで着く。名古屋との間も本数が多く、時刻を気にして時刻表を調べたことなど、一度もなかった。その手軽さが、かえって「いつでも帰れる」という感覚を、私の中で強くしていたのかもしれない。

もし母がもっと長生きしていたら。そんな「もし」を考えても仕方がないと分かっていながら、時々考えてしまう自分がいる。

母が亡くなってから、帰る回数は目に見えて減った。帰れなくなったのではない。帰る理由が、ひとつ、静かに、しかし確かに消えてしまったのである。

兄は今も実家で暮らしている。だから帰ろうと思えば、いつでも帰れる。だが、以前のように玄関の扉を開ける気持ちには、なかなかなれない。あの家には母がいた。母は、最後までその家で暮らし、その家で静かに息を引き取った。母の声があり、笑顔があり、「おかえり」と迎えてくれる人がいた。家は今もそこに建っている。台所も、居間も、あの日のままだ。けれど、あの頃の家はもうない。同じ建物であっても、そこに流れている時間はもう違う。そのことを受け入れるまでに、私はずいぶん長い時間を必要とした。

二. 名古屋の写真展

10年程前のある年のことだった。名古屋で写真展を開いた。会場には、思いがけない顔がいくつも並んだ。高校時代の友人たちである。卒業すればそれぞれ別の人生を歩み、もう会うこともないだろうと、どこかで諦めていた相手たちだった。それが四十年近くを経て、また同じ空間で笑い合っている。

若い頃の再会は、いつも偶然だった。だが還暦を前にしてのこの再会は、どこか必然のように感じられた。時間は人を遠ざける。だが同じ時間が、人をもう一度、静かに近づけることもある。

この時期を境に、私が岐阜へ通う頻度は、大きく変わった。表向きの理由は、そこで再会した友人たちとの縁だった。だが、そのすべてを、ここに書くことはできない。

久しぶりに顔を合わせても、不思議と昨日まで会っていたかのように話せた。「あの先生、怖かったよな」「あの店、まだあるぞ」――そんな他愛もない話で笑い合う。思い出とは、過去を懐かしむためのものではないのかもしれない。あの頃の自分を、もう一度思い出させてくれるもの。それが思い出というものの、本当の役割なのだろう。

ある時、旧友の一人が言った。「杉山君の写真で、岐阜に恩返しをしたらどうだ」写真展の日だったか、それとも別の集まりの折だったか、正確には覚えていない。ただ、その一言だけは、静かに、しかし確かに心へ残った。長年、写真という仕事をしてきた。多くの人を撮り、多くの景色を撮り、多くの時間を切り取ってきた。それなのに、自分を育ててくれた町に対して、一体何を残してきただろう。そう考え始めると、答えは何も浮かばなかった。

その空白を埋めるように、私は岐阜を歩き始めた。

三. 岐阜を撮るということ

母のために帰るようになってから、私は故郷を歩く時間そのものを、少しずつ増やしていった。せっかく帰るのだから、カメラを持って神社へ足を延ばそう。寺を訪ねよう。古い町並みを歩いてみよう。そんな軽い気持ちから始まった散歩は、やがて実家を拠点に、ひと月ほど滞在しながら岐阜市を撮り歩く生活へと変わっていった。仕事の合間を縫っては帰り、また滞在する。そんな日々が、何年も続いた。

伊奈波神社の長い緩やかな坂道の参道。正法寺の大仏。崇福寺の石庭、信長父子の墓標や位牌堂。延算寺の山麓の静けさに包まれた佇まい。大智寺の市松模様描く静かな苔庭。川原町の格子戸が並ぶ通り。濃尾平野を見渡せる岐阜城。そして、季節ごとに表情を変える長良川。どこも岐阜を代表する場所ではあったが、不思議と私は、賑わう繁華街よりも、人の少ない静かな場所へ足が向いた。

若い頃なら、もっと違うものを撮っていたかもしれない。人の流れ。都市の変化。時代の空気。そういうものに惹かれていたはずだ。けれど、この時期の私は違った。静かな境内に立ち、木漏れ日の中でシャッターを切る時間そのものが、何より心地よかった。

忘れられない朝がある。実家の屋上から、まだ薄暗い空を見上げていた。雲が低く垂れ込め、金華山の稜線だけがかすかに見えていた。その気配に、いてもたってもいられなくなり、慌てて身支度を整え、金華山の麓へ向かった。着いた頃には、雲が山肌にまとわりつくように動き始めていた。城が雲海に浮かんでいるように見える瞬間は、ほんの数分しかない。その一瞬を逃さぬよう、じっと空を見つめ続けた朝だった。あの写真は、偶然ではなく、待つことでしか撮れない写真だった。

朝早く家を出て、夕方まで歩き続ける日もあった。同じ場所に、季節を変え、時間を変えて、何度か足を運んだこともある。朝と夕方では光の色が違う。雨の日には雨の日にしか見えない色があった。とりわけ多く通ったのは、紅葉の季節だった。木々が色づく境内には、その年、その一瞬にしか出会えない彩りがある。だから私は、「また今度撮ればいい」とは、一度も思わなかった。今日の光は、今日しかない。今日の風は、今日しか吹かない。写真家とは、そういう一瞬を捕まえる仕事なのだと、改めて思い知らされる日々だった。

鐘の音。風に揺れる木々。石段を踏む足音。何百年もそこに立ち続けている建物。私は最初、歴史を記録しているつもりだった。文化財としての価値を、写真という形で残しているつもりだった。

だが今になって思う。あのとき本当に撮っていたのは、「時間」だったのではないか、と。人は生まれ、歳を重ね、やがていなくなる。それでも神社や寺は変わらずそこに立ち、次の世代を、また次の世代を迎え続ける。母が元気だった頃も。私自身がまだ若かった頃も。そして今も。そういう、人の一生よりもずっと長い時間の流れを、私は無意識のうちに写真へ写し取ろうとしていたのかもしれない。

撮り溜めた写真は、のちにWikipediaへ提供することになった。岐阜の歴史ある建造物の記事に、私の写真が使われるようになった。また、写真をまとめて一冊の写真集として出版もした。今では、私が撮った岐阜の写真をまとめたページ(https://nsp-jp.com/gifu/)が、観光をはじめさまざまな場面で参照されるようになっている。一言の後押しから始まったことが、思いがけず遠くまで届いた。

四. 写真には写らないもの

若い頃の私は、どれだけ美しく撮れるかということばかりを考えていた。構図。光の当て方。空気の透明感。色の濃淡。細部まで描写し尽くす、精密な世界。それが写真の価値だと信じていた。もちろん、それは今でも間違いではない。

けれど、歳を重ねるにつれて、写真というものへの見方が、少しずつ変わってきた。

写真には、写るものと、写らないものがある。神社は写る。寺も、石畳も、木漏れ日も写る。しかし、その場所で誰と何を話したかは写らない。どんな気持ちでシャッターを押したのかも、写らない。写真はすべてを記録しているように見えて、実は一番大切なものだけを写さない。

だから私は、昔の写真を見返すたびに、写真そのものを見ているのではなく、その頃の時間を思い出している。「あの日は妙に暑かった」「あの日は風が気持ちよかった」「帰りに、あそこへ寄った」――そんな断片が、一枚の写真から、音もなく静かによみがえってくる。写真とは、記憶へと続く扉のようなものなのだと、今の私は思う。

写真家という仕事は、一人で歩くことが多い。誰にも邪魔されず、自分の感覚だけを頼りに光を待つ。そういう時間が、私は好きだった。だから長い間、写真とは孤独な仕事だと思い込んでいた。

けれど最近、昔の写真を見返していて、ふと立ち止まることがある。本当に、一人だっただろうか、と。

ファインダーの中には、確かに誰も写っていない。だから、一人で撮った写真なのだと、疑いもなく思っていた。けれど写真を見つめていると、その場所の空気まで、不思議と蘇ってくることがある。交わした何気ないひと言。木陰でしばらく足を止めた、あの午後の静けさ。そういう時間は、一枚の写真には決して残らない。だからこそ、写真を見るたびに、写っていないはずの記憶だけが、かえって鮮やかによみがえるのかもしれない。

写真とは、つくづく不思議なものだと思う。写っていないものほど、忘れられない。

五. 帰りたくなる理由

伊奈波神社の参道は、長く、ゆるやかに曲がりながら上へと続いている。本殿だけでなく、境内のあちこちにいくつもの社が点在し、それぞれの神を祀っている。どの社へ向かうにも、また別の石段や小道をたどらなければならない。木々に囲まれ、夏でも日差しが柔らかく落ちるその境内を、私は何度か、一人で歩いた。足を運んだ回数はそれほど多くない。それでも、そのわずかな時間の記憶だけは、なぜか今も鮮明に残っている。

一段一段を確かめるように上る日もあれば、息を切らして駆け上がる日もあった。境内に吹く風には、季節ごとに違う匂いがある。春は土と若葉の匂い。夏は木陰の涼しさ。秋は乾いた落ち葉の匂い。冬は澄んだ、痛いほど冷たい空気。写真には、その風は写らない。だが、あの日どんな風が吹いていたかを、私は今でも、ふと思い出すことができる。

その場所へ帰りたくなる理由を、うまく言葉にすることはできない。神社としての美しさや、歴史的な価値だけでは説明のつかない何かが、あの石段にはある。おそらくそれは、そこで過ごした時間そのものが、風景の一部として、私の中に残っているからなのだろう。写真には写らない時間ほど、なぜか色濃く、心の底に沈んでいる。

私は写真家として、リアリズムを大切にしてきた。ありのままを、できるだけ忠実に残す。それが自分の仕事だと信じてきた。けれど写真を見返すたびに、写っていないはずのものまで、確かに思い出す自分がいる。見上げた大きな木。境内に吹き抜けていった風。ふと足を止めた石段の途中。そこには、写真には残らない何かの気配が、確かにあった。

写真とは、写っているものだけでは完成しない。写っていない記憶があって初めて、一枚の写真になるのだと思う。だから私は今も、あの石段を撮った写真を見るたびに、風景ではなく、時間を見ている。

六. 同じ景色は、二度とない

写真を仕事にしていると、同じ場所へ何度も通う。朝と夕方では光が違う。春と秋では空気が違う。だから私は、「また今度撮ればいい」と思ったことが、一度もない。今日の光は今日しかなく、今日の風は今日しか吹かない。

だが、それは景色だけの話ではなかった。人生もまた、同じだった。

母と話した時間も、あの日しかなかった。友人と笑った時間も、あの日しかなかった。石段を一人で上った、あの静かな時間も、やはり、あの日しかなかった。

その時は、ただのいつもの一日だと思っていた。また来週も、また来月も、似たような時間が続くのだと、根拠もなく信じていた。だが人生は、いつもあとになってから教えてくれる。「あれが、最後だったのだ」と。

だから人は、思い出を美しく感じているのではないのだろう。二度と戻らないことを、心のどこかでとうに知っているからこそ、その時間を大切に思うのである。

七. 故郷は、記憶でできている

岐阜へ帰るたびに、町は少しずつ変わっていた。新しい建物が建ち、昔あった店がいつのまにか姿を消している。子どもの頃によく歩いた道も、ずいぶん印象が変わってしまった。変わらないものなど、この世にはない。それが時の流れというものなのだろう。

それでも、不思議なことに、故郷はなくならない。町並みそのものではなく、記憶の中に存在しているからだ。

長良川を見れば、子どもの頃の夏を思い出す。金華山を見上げれば、遠足の日の空気を思い出す。神社の石段を見れば、あの日そこに差していた光を思い出す。故郷とは、建物でも住所でもない。そこに積み重ねてきた時間そのものなのだ。

だから私は、神社や寺を撮っていたのではなかったのだと、今になって思う。私はきっと、時間そのものを、少しずつ拾い集めていたのだろう。

八. 会いたい人がいるということ

若い頃は、「会いたい」と思えば、すぐに会えた。それが当たり前だった。だが人生は、少しずつ形を変えていく。親は歳を重ね、友人はそれぞれの道を歩み、住む場所も、時間の流れ方も変わっていく。そして、人との距離もまた、以前とは違うものになっていく。

切れてしまうわけではない。ただ、以前とは違う時間の流れになる。それでも人は、誰かを思い続けることができる。会う回数の多さでも、交わす言葉の数でもない。人は心の中に、誰かの居場所を持ったまま、生きていける。その場所は、時間が経っても、簡単には消えることがない。

だから、ふとした季節の匂いに、心が動くことがある。昔よく歩いた道を、もう一度歩きたくなることがある。あの神社へ続く参道を。あの石段の先にある、静かな境内を。

今振り返れば、私はいろいろな理由をつくって、岐阜へ帰っていた。母に会うため。写真を撮るため。写真集をつくるため。神社や寺院を記録するため。そのどれもが、確かに本当だった。一つも嘘ではない。だが、本当のことは、決して一つだけではなかったのだと、今なら分かる。

人は、帰りたいから帰る。会いたいから帰る。それだけで十分なはずなのに、大人になるほど、もっともらしい理由を後から探してしまうものらしい。理由があれば、人は迷わず動けるからだろう。だが心はもっと正直で、理屈のほうがいつも、少し遅れて追いついてくる。

終章. 帰る理由

母が亡くなってから、故郷へ帰る回数は少なくなった。以前のように長く滞在して、神社や寺を巡ることもなくなった。何度か歩いた参道も、石段も、しばらく足を運んでいない。それは、もう隠しようのない事実である。

それでも、故郷が遠くなったとは思わない。むしろ逆である。帰る回数が減ったからこそ、故郷は以前より近くなった。心の中で。思い出の中で。そして、写真の中で。

人は、失って初めて、その存在の大きさを知る。母がそうだった。故郷も、そうだったのかもしれない。

私は、岐阜の神社や寺院を撮った。歴史を残したかった。文化を残したかった。それも本当だった。だが今、あらためて写真を見返すと、自分が本当に残したかったのは、建物そのものではなかった気がしてくる。そこに流れていた時間。そこに吹いていた風。そこに差していた、あの日だけの光。

写真は、一瞬を残す仕事だと、ずっと思っていた。だが違った。写真は、二度と戻らない時間を、そっと手のひらに乗せて差し出してくれるものだった。

だから私は、時々、昔の写真を開く。神社の鳥居。古い本堂。秋の紅葉。そこには誰も写っていない。けれど私は知っている。あの日の空気を。あの日の光を。写真には写らなかった、そのすべてを。

それでいいのだと、今の私は思う。すべてが写ってしまったら、思い出はそこで終わってしまう。人の心の中には、写真には残らない風景だけを、そっと覚えておくための場所がある。

旧友が言ってくれた。「写真で、岐阜に恩返しをしたらどうだ」と。あの一言がなければ、私はあれほど熱心に、故郷を歩かなかったかもしれない。母がいてくれたから歩けた。写真という手段があったから歩けた。友人が背中を押してくれたから歩けた。そして、言葉にならない何かにも、いつも静かに背中を押されていた。人生とは、一人で歩いてきたようでいて、いつも何かに、そっと支えられているものなのだと、この歳になってようやく気づいた。

これから先、どれくらい故郷へ帰るのだろう。それは、私にも分からない。ただ、一つだけ分かっていることがある。

故郷とは、私の人生の出発点ではない。人生を振り返るたびに、心がそっと帰っていく場所なのだ。そしてその場所には、これからも変わらず、写真には写らない風景が広がっている。石段があり、風が吹き、言葉にできない記憶が、今もそこに、静かに残っている。

私は、その風景を大切にして、これからも生きていきたいと思う。

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